東京には東京の人がいないのでは?
東京在住の頃、こんなことを感じました。
年末年始の時期になると特に強くその様に感じました。
通勤電車が閑散としているのです。
土日祝日でもなかなか座れないのに。
駅のホームも構内も人を避けることなく進むことができます。
あの人たちどこ行った?
そんな風に思ったものです。
上京前は年末年始の交通機関の混雑の報道にピンときませんでした。
帰省やUターンでなぜあんなに人が移動するものなのか。
それが実際に東京に住んで合点がいきました。
満員電車で同乗していた人たちがそのまま帰省、Uターンラッシュの人員となったのだと思いました。
つまりかの人たちの多くは東京出身者では無いという事になります。
ならば東京生まれ東京育ちの人が残ったら東京の人口はどれほど変化するだろう。
もはや妄想の領域の話ですがそんなことも考えてしまいます。
そういえば浅草生まれ鎌倉在住の年長の友人がいました。
生粋の東京育ちなのに移住してしまうものなのかと意外な気持ちになったのを憶えています。
自分のような地方の人間が東京に来て、東京の人は東京を離れている。
なんだかあべこべな気がしました。
東京への人の流入は良く知られたことです。
その逆の東京をあえて離れる例もそれほど稀ではない事をこの時知りました。
あるいは国土がそれほど広くなければそのような人の移動など些事なのかもしれません。
以前は都会的な感性を身に付けようと息巻いていた時期がありました。
都会と地方の間には何かしらの差異があるものと幻想していたのです。
もちろん社会インフラ等の物質的なものには大いにあると思います。
ただ自分の期待していた人間の内面性に関しては「都会の場合はこう」というものは無い事に気付きました。
都会育ちでものんびりマイペースな人はいました。
地方生まれ地元育ちでも垢抜けた人はいます。
東京の会社でも仲間内で徒党を組んで他を排斥する文化はありました。
一方で片田舎の趣味グループの人たちが他地方の新顔に分け隔てなく気遣いすることもあります。
環境の変化が人間性の形成に寄与することは大いに考えられます。
ただ当人次第で程度の差は生じるかとは思われます。
変わる人は元来その性分を持ち合わせているから状況に関わらず遅かれ早かれ変わるものでしょう。
逆にいくら環境を変えても大した変化を期待できない性分の人もいるでしょう。
過去の自分はこのようなごく当たり前な事にも気付かず未来の自分に期待していたわけです。
都会的なものなどというあやふやな概念を足場に日々を送っていたのです。
良識の獲得に時間がかかりすぎですがそれはそれで自分の性分なのかもしれません。